「腑に落ちる」快感。考え方の癖。

こんにちは。

りらです。

今日から月曜日ですね。ここしばらく「なぜ別れられないのか」悶々と考えていましたが、悶々悶々と自分の内へ内へこもっていったので考えるのはしばし休憩。

 

今日は最近悶々している中で気づいた「腑に落ちる」ことについて。

 

「腑に落ちる」快感

なにか答えのないものに悶々と悩んでいる時、突然「こういうことか!」と腑に落ちる答えが見つかるときってありませんか。

私は最近、「こういうことだ!」と納得いく「腑に落ちる」答えを見つけた後に、まるで花粉症の辛いときに鼻炎薬を飲んだ後のような、す~~っと気持ちが落ち着く快感体験がありました。

身をもって「納得」したことで、その答えが自分にとっては正しいんだ、と私は感じたのですが、のちにカウンセラーにその話をすると「それは自分が納得する”考え方の癖”に当てはまる答えだったから気持ちが落ち着いただけじゃない」とバッサリ斬られました。涙

 

私が自他共に認める病んだ状態とはいえ、これって一般的にもいえる心理なんじゃないか??と思ったので、皆様にシェアしたいなと思います。

 

 

私の具体的な話

一般論として書きたいのに例えが重すぎるのですが、、私の場合は、例のごとく中絶に関する自責の気持ちが爆発してかなり取り乱した時のことです。

「あのときこう言った彼を責めたい」「あの時こうした自分を責めたい」「でもしょうがなかった」「しょうがなくなかった」頭の中が砂嵐になったのち、ふと「あの時、産んで一人で育てるすら選択ができなかったのは、自分には子供を育てる器がなかったから産むことは不可能だったんだ。」と思い当たると、突然心のザワザワがす~~っと引いていきました。

「自分が未熟だった」と思うと、それはもう劇的にす~っと気持ちが落ち着き、「腑に落ちる」快感を味わいました。

 

カウンセラーからの指摘

そして前述のとおり、カウンセラーにその事を伝えると、「その答えがいい・悪いではなく、その答があなたの”考え方の癖”に当てはまる答えだったから、気持ちが落ち着いたのでは無いですか」と言われました。

つまり、腑に落ちたからと言ってそれは「正しい答え」ではなく「自分が落ち着く答え」ではないか、ということです。

ということは「腑に落ちる」って自分にとって「都合のいい解釈」だったのか!?

 

少なくとも私には「自分を卑下することで落ち着く」癖があるそうです。自分では「他人を変えることはできないから、自分の反省点を見つけて変えられるところを変えよう」という結構ポジティブな心持ちだと思ていたのですが汗

腑に落ちて何が悪いって、「自分の考え方の癖」に偏った答えを沢山持てば持つほど偏った人間になるからです。私なら「自分が悪い悪い…」でDVにはまって別れられない訳だし、卑屈な人は卑屈に、自分勝手な人は自分勝手に、自分に甘い人はもっと甘く…。

 

個性の一部ともいえるかもしれませんが、偏っていくことは快感を伴うことがわかったので、自分の癖を意識して、少しでもニュートラルな視点を保てたらなぁと思う出来事でした。